新東宝映画傑作選廃盤のお知らせ
長らくご愛顧賜りました新東宝映画傑作選シリーズ(発売元.国際放映、販売元.テック・コミュニケーションズ)でございますが、新東宝映画傑作選シリーズ全タイトルを6月1日付で生産終了、4タイトルにつきましては6月1日付で同時廃盤、さらに11月30日付で全タイトルを廃盤とさせていただきました。
これまでご愛顧賜りましたことに厚く御礼申しあげますと共に、黒木監督シリーズなど引き続き弊社製品に一層のご厚情を賜りたく、切にお願い申しあげます。
なお、以下の記事はDVDを販売していた時代に作成したものですが、ご利用いただいている方が多いため、そのまま存置しているものです。
"キング・オブ・カルト"石井輝男
2010年は日本映画の巨匠、石井輝男氏が亡くなられて5年目の節目を迎えます。このコーナーでは、石井輝男氏の足跡を振り返りたいと思います。
生誕から新東宝参画まで
石井輝男は、1924年1月1日、東京府東京市麹町区麹町(現在の東京都千代田区麹町)に生まれた。生家は浅草で綿問屋を営んでおり、跡を継ぐことを期待され、尋常小学校後は旧制商業学校である早稲田実業学校へ進学する。しかし、1939年には中退してしまう。石井輝男は、その後、1942年に東宝へ入社する。入社時の職能は撮影助手であった。
1945年には旧日本軍に召集され、中国大陸へ配属される。終戦とともに東宝へ復帰するも直後に東宝争議が発生、石井輝男は十人の旗の会とともに東宝を離脱して新東宝の設立に参画する。
新東宝時代
新東宝へ参画した石井輝男は、撮影助手から助監督へ職能を変更することとなり、渡辺邦男の元で演出の修行をはじめる。その後、清水宏や成瀬巳喜男の助監督も勤め、演出の幅を広げる。
1957年に『リングの王者 栄光の世界』で初めてメガホンを取る。宇津井健主演のこの作品はプロボクサーを目指す青年をヒーローに据えたストーリーであるが、ヒーロー物の映画作品として評価を受け、注目される。同年には同じく宇津井健を起用した『鋼鉄の巨人』を発表する。これは日本初のスーパーヒーロー物の特撮映画であり、大好評を博す。『スーパージャイアンツシリーズ』として、立て続けに6作作られる。
こうした子ども向け特撮映画を撮る一方、石井輝男は生家の店舗があった浅草のストリップ劇場を舞台にした『肉体女優殺し 五人の犯罪者』(1957年)も発表する。その後の日本映画界に衝撃と論争を巻き起こす『地帯(ライン)シリーズ』へとつながる最初の作品であり、石井が自分の撮りたいテーマを撮った最初の作品とされている。
『地帯(ライン)シリーズ』の撮影と平行して、日本の山岳映画史に名前を刻む『猛吹雪の死闘』(1959年)や作詞家および月光仮面などの脚本家として知られる川内康範脚本の『戦場のなでしこ』(1959年)といったドキュメンタリー風フィクションも撮影しているが、これらの作品にも石井独特のセンスが見える。
また、石井輝男は好評を博した『女王蜂』(1958年、田口哲監督作品)の続編を担当することになり、『女王蜂の怒り』(1958年)を撮影する。この作品は石井輝男が撮った初めての任侠アクションとなった。この作品自体は内田弘三の脚本であり、前作の流れを踏襲している。石井輝男自ら脚本まで手がけた最初の任侠アクションは『女王蜂と大学の竜』(1960年)である。実話を元に構成された本作は石井流任侠アクションの源流といえる仕上がりとなっている。
しかし、『女王蜂と大学の竜』が撮られた頃には既に新東宝の経営は行き詰っており、『恋愛ズバリ講座』(1961年)を最後に石井輝男は新東宝を退社することになる。
東映任侠路線
新東宝を離れた石井輝男は、東映へ移籍。『花と嵐とギャング』(1961年)を撮影する。この作品が高倉健と石井輝男のコンビ初作品である。新東宝で撮影していた任侠アクションをさらに石井の味付けでモダニズムなギャング物というスタイルで撮影したもので、それまでの東映アクション映画とはスタイルを大きく違えていた。その延長で撮影された『網走番外地』(1965年)は空前の大ヒットとなり、東映任侠路線を印象付ける作品として、また石井輝男の代表作品として、現在も語り継がれている。
東映異常性愛路線
任侠路線を撮り続けると思われていた矢先、石井輝男は『徳川女系図』(1968年)を発表する。日本映画界に再び衝撃と論争を巻き起こした『東映異常性愛路線』の第一作である。日本映画界での論争をよそにその後も石井は異常性愛路線を撮り続け、『徳川女刑罰史』(1968年)は、同年の東映全作品中最も高い興行収入を得ることになる。
テレビ映画
石井輝男は岩城滉一がスターダムにのし上がるきっかけとなった"暴走族三部作"などの作品を撮り続けるが、1979年の『暴力戦士』(配給.東映)を最後に劇場映画からテレビ映画へシフトする。
石井が最初にテレビ映画を手がけたのは1971年スタートの『めくらのお市』(日本テレビ系列)であり、劇場映画と平行して既に手がけていた。1974年の『右門捕物帖』(NETテレビ系列)は杉良太郎の名前をお茶の間へ広げる立役者となったが、本格的にテレビ映画シフト後には単発ドラマが多くなり、代表作には恵まれなかった。
劇場映画復帰から逝去
石井輝男は『ケンタウロスの伝説』(1985年)というアニメ映画で映画界に復帰、さらに『ザ・ヒットマン 血はバラの匂い』(1991年、東映Vシネマ)で本格的なビデオ映画を撮り、『ゲンセンカン主人』(1993年、配給.シネセゾン)において劇場映画に完全復帰した。折りしも名画座での再上映によって石井輝男の再評価が始まっていた時期であり、さらにちょうど同じ頃に再注目されていたつげ義春の作品を映像化したということで話題になった。1998年にはつげ義春の代表作である『ねじ式』(配給.ビターズ・エンド)を映画化、石井は"カルト監督"の代表的な監督としても扱われるようになる。
その後も公判中の事件を扱い論議を巻き起こした『地獄』(1999年、配給.オーピー映画)、江戸川乱歩作品を映像化した『盲獣VS一寸法師』(2001年、第23回ぴあフィルムフェスティバルのみで公開)などを世に送り出す。
往時の東映任侠路線を髣髴とさせる高倉健主演映画の企画などを進めていた矢先、肺がんのため、2005年8月12日に逝去。享年81。墓所は北海道網走市の網走市営潮見墓地。
